新潟県の産業経済と文化風知草」のホームページ
経済産業論
『歴史的形成過程からみた新潟県の産業構造』
トップへ前のページへ次のページへ
本稿の目次へ
経済産業論:目次

第14章 絹織物の生成と発展

 養蚕に不可欠な桑が栃尾山地では自生 していた。新潟県における絹織物発祥の地とされ
る。絹織物に必要な自然条件は新潟県内の一部の地域には既に備わっていた。幕末期には
越後の山間地を中心に桑の栽培が広がっていく。

第1節 魚沼地方の絹織物

養蚕が発達し縮み生産が縮小していく中で絹縮交織の生産が始まる。1808年(文化5年)幕府
(小千谷陣屋)の触書の中に絹縮交織の禁止が出ているので1808年にはすでに始まっていた
ものと推測される。

(1)養蚕業の発達
 堀之内・小出島・浦佐周辺の村々では宝暦年間(1751年〜1763年)にはすでに養蚕が活発
であった。生糸商の来訪も見られた。魚沼郡および刈羽郡小国町・頸城郡松之山は縮みをは
じめ白布(たぐり)・小白布(こじろ)・続布(さいふ)・煎茶・木轤(ころ)・杪(ぼえ)の7品について
幕府は運上金を課した。
 魚沼郡芋川(湯之谷村)星家には1812年(文化9年)の「養蚕指南密書」が伝わっている。養
蚕は当時の最新技術であった。星家の資料に依れば、投下された労働量は表の通りであり産
出された繭は現金化されている。このことは1800年代に湯之谷村地域においても養蚕が行わ
れ、それが貨幣経済の中に組み込まれていたことを示す。同時に繭を仲介する在郷商人の動
きがあったことを示唆する。
 
表 1 創成期の養蚕業(湯ノ谷村星家資料から) 
桑取り繭掻き他仕事産出量売却代金
1817年(文化14年)13人4人24人半
1855年(安政2年)33人半春繭26貫匁
1856年(安政3年)春繭12貫匁
夏繭3貫匁3両2分
1両1分
(注)『新潟県史通史編5』P.278の記述から筆者構成


 同様のことは、小出島組米沢村(広神村)では、繭の仕入れ代金として30両を借用してお
り 、比較的近いエリアの中で、養蚕業と繭を仕入れてからの製糸業の区分けがあったことが
窺われる。
次表に見られるように1864年(元治1年)の魚沼地方における絹織物・生糸関連の生産高は十
日町が大きなシェアーを有していた。ついで多いのが小千谷である。このことは多くの機前が
縮みの製織から絹に移行していることを窺わせる。ちなみに縮みはこの2地区の他須原(守門
村)への集中が目立つ。須原は峠を越えれば紬(つむぎ)の本場栃尾である。栃尾の影響を受
け早い時期、文化文政年間(1804年〜1829年)から紬の生産が行われていた。また生糸は魚
沼郡内で早くから養蚕が行われており、小出島が中心的な市場であった。

表 2 魚沼7市場における生糸・絹織物取次高(1864年元治1年)
市場名絹(反)紬(疋)生糸(貫)通糸(箇)
小千谷1,6693,150477196
堀之内551,0507308
小出島301403,150不明
須原732,660540-
塩沢752045-
六日町112-63-
十日町6,2453.01827-
計8,25910.0385,032-
(資料)伊東祐之「明治初年魚沼地方における蚕種・繭・生糸・紬生産と流通」(新潟史学18)。
『新潟県史通史編5近世三』P.339

表 3 宮本茂十郎
1829年(文政12年)宮本茂十郎が十日町に来住し絹縮交織は本格化する 。宮本の製品は「透綾織り(すきあやおり)」と呼ばれる。経糸(たていと)に芋(からむし)、緯糸(よこいと)に絹を使い高機で織り上げる。宮本茂十郎は口伝によれば、十日町の機屋兼縮布行商松屋庄兵エが出先の加茂で知り、同人の懇請で十日町に移住した。その後住居を転々としたが宮之下に波多岐屋なる機屋を経営したとされる。宮本は十日町へ移住した後原始的ないざり機を高性能の高機に工夫した。土地の機大工佐治右エ門を指導しこれを完成した。この普及と織子に使用方法を指導する。同時に絹麻交織の工夫に没頭し十日町地区が絹織物に転換するきっかけを作ったとされ、今でも地域の尊敬を集めている。


(2)絹織物商の成長
 このような背景の中で機屋も増加する。明治初期の機屋は次表のとおり10戸を数えるに過ぎ
なかったが1899年(明治32年)中魚沼郡織物同業者組合が結成されたときには組合の範囲は
郡内33か町村にわたり、会員数は1,596名、織機は2,311台を数える膨大な組織に成長して
いる 。もって魚沼地区における絹織物の成長が窺えるのであり、絹の製法が山間部の集落に
まであまねく及んでいることが推測できる。
 明治27年には西方吉太郎が米沢産地へ招聘され、村山富作、湯沢徳蔵は京都西陣の文字
源七に招聘され技術指導にあたっている 。十日町の絣技術が高い評価を受けたことが窺え
る。

表 4 明治初期までの絹織物機屋
工場名氏名適用
1830年(天保1年)坂甚工場中林喜作
角屋工場関口慶吉
1855年(安政2年)丸大工場大久保嘉久太
1818年(文政1年)米忠工場佐藤省三
1820年(文政3年)宮内工場宮内常太郎
1865年(慶応1年)岡崎工場庭野五郎右エ門
1871年(明治4年)円大屋工場大久保竹松
1872年(明治5年)沢喜工場田口米蔵
蕪重工場蕪木重吉
越文工場越巻文吉
出所:宮川邦雄「十日町織物史」十日町織物工業共同組合、1968年(昭和43年)P.47の記述
から作成。


第2節 各地の絹織物

(1)五泉産地の絹織物
 五泉の絹織物は 相当昔からあったのではないかと想像されるが具体的な資料は無い。
1780年代(天明年間)五泉市近郊の川東村小粥 で野尻蚕と称する飼育が行われたのがはじ
めとする見解 がある。
 古来、絹袴に有名なものは仙台平、五泉平があった。この背景には気象条件もあったかもし
れない。通常繊維用水は硬度5以上は不適当とされているが五泉では概ね3.5度である。湿度
は平均78%であって絹織物における湿度は平均70%以上とされていることから五泉は絹織物に
適した環境にあったといいえよう。
五泉の絹織物は桜町天皇の時代(1740年代:寛保年間)に袴地として始まったとされる。その
後太平洋戦争の食糧事情から桑畑は畑地などに転換され絹織物産業は衰退した。「五泉平
袴地」は現在新潟県の無形文化財になっている。

(2)栃尾産地の絹織物
 栃尾での織物はその前段階としての麻織物の歴史を伴わない。新潟県における養蚕の発祥
の地とされるだけに、相当に古い時代から自然自生の桑があり、自然発生的に絹織物が発展
したと推察される。
 この点は他の織物産地とは大きく異なり絹織物の前史に麻織物を持つ十日町産地や、木綿
織物を持つ他の産地とは自ら異なる推移を示す。当然近代に入り絹織物の衰退が始まると共
に、その産業形態は他産地とは異なる歩みを示した。
トップへ前のページへ次のページへ
本稿の目次へ
経済産業論:目次