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経済産業論
『歴史的形成過程からみた新潟県の産業構造』
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経済産業論:目次



第11章 麻織物(縮)の発達と斜陽化

 

 織物に関する歴史は古く、今から1,000年以上前から越後では織物が生産されていたとされ
る。例えば1974年(昭和49年)十日町市馬場上(ばばがみ)地内の奈良・平安時代の集落遺跡
の発掘現場から石製の紡錘車が発掘された。このことは機を織る技術が当時既に十日町に
存在したことを示す 。
織物には大別して蚕糸による絹織物、綿を使用した綿織物、苧(からむし・麻)を使用した麻織
物とある。当初は麻、綿、が普及し絹織物の形成は遅れる。
その成形過程を歴史的に概観しつつ、今日の課題を考察する。

第1節 麻織物の成長と衰退

十日町を中心に頸城地方や秋山郷などの魚沼地域一帯は「波多岐」と呼ばれていた。波多岐
とは機機(はたき)、つまり布を織る機械から当初布を織る器具の総称であったのが織物の総
称となったのであり、地名に冠せられたことからも十日町一帯は古来織物産地という事が窺え
る 。麻布の発祥は古く正倉院御物中にも越後産の布地が存在 する。
当初の布は織物というよりも編み物であった。1953年(昭和28年)5月、秋山郷からアンギンな
る布地が発見されたが、これが「あみぎぬ」という麻布であり「俵あみ」の一種であることが確認
された 。このことから一帯が麻布の産地であることが確認されるとされている。 

(1)麻織物の発展
  十日町、塩沢、小千谷など魚沼地域一帯では近世に麻織物が普及する。この地域は冬期
間の積雪量が多く約半年間は屋外活動が不能になり生産性は著しく阻害され、しかも冬期間
の余剰労働力を利用する道は途絶えていた。不利な生活条件を克服するには身近に大量に
存在する天然の苧(からむし)の活用が最善と考えられたのであろう。冬期間の湿気が麻布の
製造に適していたこともあり、魚沼一帯には麻織物が普及する。
  古代の麻布はその後名称を越後上布、越後縮布と変化するがこの麻布は越後の豪雪地
帯の主要な産物の一つとして綿々と十日町一帯を中心に受け継がれてきた。生活に余りにも
浸透した織物業は各家庭の中に深く根ざし冬期間に製造が続けられたのである。上杉謙信が
1560年(永禄3年)上洛の折越後中魚沼の上布を朝廷に献上するなど交易の手段にもしてい
る。
  「千代田城大奥」なる風俗史によれば「越後縮に限り御老中の着用せざる前は、御台所付
き上臈といえども着用すること能わざる例なりとぞ」の記述 がある。山の文化として麻布は庶
民の衣料であったが、鎌倉時代に上流階級の目にとまり徳川期に入り越後上布や越後縮み
は上流階級の衣料として完全に定着していく。
 このような高い評価を受けるにいたった背景には、貧しい生活の中で、冬期間何もすること
が無い時間を少しでも収入に結び付けようとの採算無視の姿勢にあった。何もしなければ収入
ゼロでしかもすることの無いの過酷な自然状況の中では仕方の無いことだったのだろうか。
なお、縮に代表される越後の麻布は、農村部の冬季の手慰みに終始し、京都や桐生のような
産業にはならなかった。あくまでも農村子女の副収入であって採算の取れるものではなかった
のだが、彼女達は辛酸辛苦し寄りよいものを繕うとの情熱がありこのことが越後上布の名を高
かくしたことは注意しなければならないが、このことが技術の向上 をもたらし地域社会に定着
していく。さらに当時の為政者が幕府将軍家の御用達につとめたり歴代領主の保護があった。
行商人の販売努力も大きかったろう。

(2)立地条件
越後の麻織物は越後上布あるいは越後縮みと呼称され全国に販売されて行く。全国に喧伝さ
れた背景には次のような好適な条件があった。

表 1 麻織物の好適な条件
@料の苧麻(まお・ちょま)が山野に自生しており入手が容易であった。
A豪雪地帯のため冬期約半年間の屋内作業を余儀なくされたこと。
B雪のため空気が湿潤で糸の操作に好適であったこと。
C 雪晒しが白布の製造に便利であったこと。

しかし、十日町産地の麻織物(縮み)の最盛期は天明年間(1781年〜1789年)の20万反であり
その後は衰退していきすでに幕末時期には斜陽産業になってしまう。
 苧は(お)または(からむし)。天然のままの苧麻(まお・ちょま)は青苧(あおう)ともいう。当初
魚沼地方に多く自生していたが途中で途絶える。現在は会津昭和村から移入している。当時は
会津及び最上産が最上とされた。
 「紵積」は(おうみ)。青苧から苧を紡ぎ出す作業。
 「北越雪譜」に「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水にそそぎ、雪上に晒す、雪ありて縮あり、
されば越後縮みは雪と人と気力あい半ばして名産の名あり。魚沼郡の雪は縮みの親というべ
し」とある。

(3)麻布の衰微
麻織物の停滞は幕末期の世情不安が大きな要因であったが、同時に天保改革における倹約
令 が影響している。さらに市場が武士階級に留まっており、武士の夏用式服として用いられて
いたがこのことは武士階級が窮乏するに伴い需要は頭打ちになることでもあった。また価格が
高く庶民向けに市場を転換することが出来にくかったことも、市場の転換を難しくした。
 製造過程に於いても苧 積(おうみ)から機織りまで一人の人間が通して行うため、生産量は
限られていた。とても採算に合う仕事ではなかった。また原料になる苧積(おう)価格の高騰が
ある。天保飢饉による羽州の苧積(おう)生産が減少し高騰に拍車をかけた。機前 はこの対
策として独自に原料を確保するため秋田佐竹藩領からの山苧の移入を計画 したりするがうま
くいかなかった。

(2)木綿織物の普及による影響
さらに庶民の生活様式が次第に豊になると共に木綿が普及する。越後各地でも縞織物の産地
が増加しその生産量も拡大する。普段は縞織物、改まった時は絹織物とされ、麻の織物は盛
夏の一時期にしか需要が無くなってくる。1000年以上にわたり地域社会に根ざしていた麻織物
産業は衰退し、代わって十日町地区に絹織物産業が根付いて行く。このような縮み生産の縮
小は、縮みから絹織物への転換を促すことになり養蚕業の発展に繋がっていく。
幕府は庶民階級のこのような傾向に歯止めをかけるために屡々奢侈禁止令を出すが実効は
上がらなかった。十日町一帯は幕府領であったがこの奢侈禁止令に従う者は少なかったので
あろうか、麻布は明治期にはわずかに残るのみとなる。

表 2 縮織
洋服地のクレープ crape にあたる。生地全体にしぼ(皺),しじら(脆)のある織物の総称。広義には縮緬も含まれる。織り方に縮としじらがあり,縮は平織の緯糸に強撚糸や収縮糸を用いて織ったのち,湯に浸してもんで縮ませ,表面に小さな波状の凹凸を出したもの。しじらは経緯糸の張り方を不均一にしたり,太い糸と細い糸を配したりすることで縮じわを生じさせる。材質は綿,麻,絹,合繊等がある。綿縮には片しぼと両しぼがあり,片しぼは楊柳縮,または楊柳クレープと称し,両しぼのことを一般に綿縮と呼ぶ。単に縮といえば綿縮のことが多い。絹縮は片しぼを絹縮といい,両しぼのものをちりめんと称して区別する。明石縮は江戸時代初期,播磨国明石でつくられ,その後,京都,小千谷でもつくられるようになり,昭和初期まで流行した。綿縮と麻縮は織り上げたのち,のり抜き,しぼ取り,幅出しの工程を行い,絹縮は白地の生機(きばた)を精練して幅出し,また染色加工する。麻縮は慶長(1596‐1615)のころから夏物衣料として使われ,江戸中期には各地で織られ,縞,絣等があった。麻の小千谷縮はもと越後縮ともいい,1670年(寛文10)ころ,明石藩の浪士によって織り出された。綿縮は明和(1764‐72)から天明(1781‐89)のころ,千葉の漁師たちの間で川越縞を模して波崎縞が織られていたが,強撚糸使いの縮が創製され,のち銚子縮として広まったのが始まり。寛政年間(1789‐1801)には阿波しじらがつくられた。脆間道(しじらかんとう)は縮んだ白地に黒茶の吉野縞が入り,名物裂(めいぶつぎれ)として知られている。縮はしぼのために肌ざわりがよく,夏の衣料として欠かせなかったが,近年は服地,下着,夜具地などに利用されている。 
出所:平凡社デジタル百科

表 3 越後麻織りものの生産 
生産高(反)金額(円)
1652(承応1年)5,067 
1721(享保6年)30,000 
1764(明和1年)40,000 
1794(寛政6年)61,000 
1801(享和1年)65,000 
1781〜1789(天明年間)200,000 
1804〜1830(文化文政年間)150,000 
1855(安政二年)67,550 
1868(明治1年)135,000373,705 
1872(明治5年)120,000348,000 
1877(明治10年)110,000517,000 
1884(明治17年)93,000274,350 
1899(明治32年)18,472137,885 
 出所: 宮川邦雄「十日町織物史」十日町織物工業共同組合、1968年(昭和43年)P.39

(3)買い継ぎ商
 当初野生苧の苧麻(まお・ちょま)が十分入手できたものの、縮布の需要が拡大してくると苧
麻は不足してくる。技術の向上は素材の選択を行うようにもなる。麻は自生から栽培に代わる
が品質の均質化は必ずしも巧くいかない。会津や最上地方から苧麻の移入も行われるように
なる。
 これに要する資金は弱小零細な農民には調達できない。このような資金を融通し問屋に対し
織子が有する代金を取り立て、一方で織子に代金の立て替え払いを行う業態が買い継ぎ商と
して形成されて行く。
 買い継ぎ商は江戸の八軒問屋や六軒問屋に対抗するため地域における独占的な形態を強
めていく。そのことが買い継ぎ商の流通面のみならず資金融資面での機能を強化し十日町産
地における独特の商慣習を形成し、お家芸としての製織技術をさらに発展させることになる。

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