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新潟県の産業経済と文化「風知草」のホームページ
経済産業論
新潟県の自然の特色はまず第1に雪がある。長い雪の生活は農作業が不可能になることか
らその代替え産業を必要とした。雪解け水は信濃川、阿賀野川、荒川、関川、姫川などの大 河 になる。その河川延長の総計は3,599.6Kmであって、この長さは北海道 、長野県 についで 全国第3位になる。この河川は耕作に適した豊かな農地を育み新潟県を日本一の米どころ に した。豊かな水量は工業用水を提供し、端麗辛口の酒を産み、同時に鉄道の開通まで物流の 中心となった。
新潟県経済の基盤になった米作りは新潟県の持つ自然環境や地理的な条件のもとで必然
的に成長してきた。さらに先人の英知と汗の結晶が加えられてインフラが整備され確立したも のであるが、このことは人口増加を吸収可能としそれは江戸期を通じて日本一の人口を養う。 越後の国力にもなった。そして明治以降の新潟県の発展を支えていく。
江戸時代までの米作を中心にした農業は明治以降大規模な地主階級を現出させ、地主階
級による資本蓄積を進行させる。農業資本は明治期の殖産興業政策の中でますます肥大化 しながら明治初期の資本主義経済が求める所要の資本を提供していく。
しかし、小作料は物納であって米価の変動差益は地主の手にはいる。小作は窮乏し農地を失
う者が増加する。こうして地主は益々肥大化した。昭和20年の農地解放により治まったものの 地主と小作の関係は明治以降搾取と被搾取の関係になっていく。新潟県では巨大地主が多く 誕生するが資料に見る緊張関係があった。
蓄積された米作資本は大規模地主階級を作りこの地主階級の資本が新しい産業に投資され
産業の発展を促して行く。大規模地主階級はこれといった産業のない明治・大正時代の我が 国にとって唯一つの資本家であり、いまでいう最大の基幹産業であり起業家集団であった。新 潟県には1924年(大正13年)50町歩以上の大地主は256家あり北海道を除いて全国第1位で あった。しかも1,000町歩以上の巨大地主は全国に9家あったがこのうち5家 が新潟県であっ た。まさに「地主大国」であった。これらの地主資本は資産の成長の歩みを商工業金融に主点 を移し、蓄積した富を各企業に投資したりして、経済基盤を強固にして行く。結局地主資本は 豊富な経済力をバックに産業発展に指導的な役割を果たしながら、我が国資本主義経済が必 要とする所期の資本を提供しながら、銀行、鉄道、石油などに大きな力を持つようになる。
酒造業、醸造業など米を素材にした産業は新潟を代表する地場産業を形成、さらには製紙
業をも成長させる。
酒造業はこの米と雪がもたらす清水により作り出される。越後の地酒として様々な銘酒を生ん
だ新潟の酒造業界は現在全国第3位の出荷量 を誇る。名高い越後当時の発生も米つくりから くる農閑期の副業から生まれたものである。
製紙業は米つくりの後に大量に出る藁を使用して洋紙をつくることが明治以降に行われ、越後
和紙の伝統ともあいまって現在の製紙業に至っている。今は余り言われることがなくなったが 「わら紙」はこうした中で作られた商品名である。
米を使う米菓産業も発達した。「あられ」「せんべい」などの米菓は全国1の生産量 を誇り繊維
産業とともに大きな地場産業になって行く。米つくりの中から生まれた産業と言えると同時に雪 と良質な水の賜物と考えられる。
農業の季節性のため冬場の農閑期をいかに過ごすかは雪国の生活維持にとって極めて重要
であった。農業の季節性がもたらす冬場の農閑期は織物については越後上布、五泉平(ひ ら)、栃尾縮などを生み、新潟を代表する江戸時代以来の物産となっている。この背景には米 つくりの季節性を抜きには考えられない。
小千谷縮みや塩沢縮みなどはその芸術性の高さを指摘されるものの、生産工程は労働集約
的であり高率は悪い。これをコスト面から見た場合採算は全くとれないといわれる。それでも製 造が続けられた背景は需要があったことは無論であるが、冬期間全くすることのない雪国の 生活にあった。代替えされる経済活動が全くない時代では採算を考えることは必要なかったの であろう。
新潟県の平野部は雪解け水を集める大河により形成された。例えば越後平野は信濃川の
洪水によって運搬された土砂が堆積することで形成されている。それ故に低湿な土地であり、 大雨による洪水は家屋の流失、田畑の喪失をもたらし、時には人命や家畜までもが失われ た。慢性的に貧しく生活は楽ではなかった。
現在日本一と言われる米作りをもたらす美田は、実は最近の農地改良の結果であって、信濃
川や阿賀野川が作り出した沖積平野は米作りには必ずしも最適な条件では無かった。山間部 から平野部に出て後、新潟県の大河はしばしば氾濫を繰り返したのである。
信濃川が構成する越後平野は肥沃な大地ではあったが低湿地帯が多く米作は難しかった。
春先は「田面を雪解け水が湖水のように覆い 」、生産手順の通りには行かず、水が引いたと きは臨機応変、手際よく対応せざるを得なかった。収穫も船から行う「乗り刈り 」あるいは運搬 は「水そり 」で行うなど昔の米作は今では考えられない作業が続いた。さらに江戸期の米作は その収穫期が台風襲来時期 と重なり、農民の生活は疲弊していく。農民の生活安定を図るた めには何らかの対策が必要とされていた。
しかし幕藩体制は農業経済であり米の収穫量が経済規模を決める。農耕従事者としての農
民確保は重要である。農民が農業以外に従事することは幕命により禁止されていた。このよう な中では水害克服への努力もさることながら、可能な限り農業以外での産業を育成しなけれ ばならないが同時に副業的な産業にとどめざるを得ない矛盾にあった。
新潟県の地場産業の中小・零細性はこのような歴史の背景を持つのだろう。
度重なる洪水は流失する橋や家屋の増加をもたらすのであるが、このことが金属の加工産
業を勃興させる。家屋や神社仏閣、橋の再建のためには釘や工具類を大量に必要としたから である。厳しい農作業は丈夫な木綿の布地を必要とし、平野部の綿栽培や山間部の青宇の自 生、桑の栽培は繊維産業を根付かせる。
これらを大河が江戸などの消費地と結びつけ次第に"地域における産業"として根付いていく。
例えば1896年(明治29年)7月に発生した大洪水はその氾濫箇所の地名をとって「横田切
れ」と呼称されている。この大水害がきっかけになり現在の大河津分水が完成する。
「横田切れ」は信濃川が大きく右に曲がりそこに刈谷田川が流れ込む横田村(新潟県西蒲原
郡分水町横田)の破堤が一番大きかったことから「横田切れ」と呼ばれている。
信濃川工事事務所のホームページによれば、1896年(明治29年)は梅雨に入ってから長雨が
続き、信濃川は7月21日の大郷村(だいごうむら)(新潟県白根市)を皮切りに長岡・与板町な どで次々と破堤した。7月22日に信濃川が越後平野に入る横田村の堤防が増水に耐えきれず 破堤。溢(あふれ)出た濁流は西蒲原郡一帯を泥の海とし平島村(へいじまむら)(新潟県新潟 市)で国道を呑み込み新潟市にまで達した。さらにこの泥水は3カ月もの長期間引かなかった という。
このときの惨状を描写した歌に「くどき」と呼ばれているものがある。歌詞からはいかに悲惨
な大洪水であったかが窺われるがこのような水害は江戸時代を通じて頻発している。
この大水害により越後平野は3カ月間にわたって見渡す限りが泥の海となり青い草1本も見当
たらず食べ物はおろか飲み水も満足になかった。このため困窮に喘(あえ)いだ農家では口減 らしのためやむを得ず子供を里子に出したり芸者にしたりしたため横田村の小学生が3分の2 に減ったとの伝承もある。
古来排水不良で湛水し易い越後平野をいかにして水はけを良くするかは、新潟県の重要な課
題であった。このための干拓、排水の歴史が大正の大河津分水、昭和の関屋分水などに結実 するものの大河津分水の掘削には多くの困難があった。
寺泊の庄屋に本間数右衛門なる者、彼は信濃川に流れる水の一部を途中で日本海に流すこ
とで洪水を防ぐことが出来るのではと考えた。1730年(享保15年)ころより、この計画が数右衛 門によって幕府に請願されたが、長さ10キロにもおよぶ分水路は難工事が予想され、許可に はなっていない。分水路建設の請願を受けた幕府は調査を行ったものの費用の面、周辺部落 の反対などがあり結局許可を出さなかった。
分水路の建設によって不利益が生じるという申し出もあった。すなわち分水路建設予定地に
あたる田畑や家は移転あるいは失うことになる。海に川の水(淡水)が注ぐことで塩が作れなく なり魚も取れなくなるとういこともあった。信濃川の水が途中ですべて海に注いでしまい下流 (新潟方面)に水が流れなくなるなどもあった。
信濃川の洪水・破堤のの個所は地蔵堂(分水町)から新潟町の間に集中しており、近世だけ
でもその発生回数は85回余にのぼる。このため多くの先人が信濃川大河津分水路掘り割り計 画を作り幕府に請願しているが、結局横田切れの大災害まで工事は行われなかった。
ここでは大河津分水への経緯を纏めておく
A.1832年(天保3年)庄屋田中新之丞の請願
例えば1832年(天保3年)福島村(栄町)庄屋田中新之丞は、巡村中の幕府評定所役人に信
濃川大河津分水路掘り割り着工の許可を請願している。
<請願の内容 >
B.1833年(天保4年)43ヶ村民の請願
C.1838年(天保9年)下新村他の庄屋らの請願
D.1842年(天保13年)桑名藩主の請願
桑名藩主はかねがね大河津分水の堀割を主張していた。家臣山脇重左衛門に命じて、水路
着工の願書を老中水野忠邦へ提出している。
<桑名藩による1842年(天保13年)の請願>
実地調査では関係する村々の意見を聴したことが記録に残っている。
例えば、
<1842年(天保13年)の請願に基づく実地調査の反対意見>
長岡藩が幕府へ反対の旨申し出て欲しいとする記録が次の通りある。
<1842年(天保13年)の請願に対し長岡藩領巻・曽根組59ヶ村の代表の反対意見>
<1842年(天保13年)の請願に対する高碕藩領の反対意見>
E.1843年(天保14年)幕府の調査
F.1865年(慶応元年)桑名藩の請願
桑名藩は古川村(白根市)名主田沢与左衛門と梅ノ木村(新津市)名主上田幸助を村々の総
代表として江戸に出府させ幕府に請願させている。
<桑名藩による1865年(慶応元年)の請願>
前述の様に賛否両論が渦巻く中で、上述の文献は、関係者の意識の変化を想像させる。即ち
信濃川下流の新発田藩の領民は当初分水路の掘り割りには反対であったが、長岡・村上藩 の中ノ口川の工事計画に反対する過程で中ノ口川の川幅を狭めれば結局信濃川の水量を増 加させる。根本的に信濃川の水量を減少させるためには、結局大河津分水路の掘り割り計画 を実現させるしかない、という認識である。
上述の文献からは慶応元年の幕府の調査に対して新発田藩は、領民の意を汲んで幕府に大
河津分水路の実現を懇請したことになる。
その一方で中ノ口川の水呑入口を狭める工事は実行されたが、長岡藩の考え方も変化して
いく。すなわち、中ノ口川の状態は水呑入口の改修工事後も洪水の危険度は変わらなかっ た。これは、中ノ口川が下流へ行くほど川幅が狭くなっていることが最大の要因であるが、この ことは結局大河津分水路の掘り割り工事しかないとの認識に到達する。
G.1866年(慶応2年)の新潟奉行所の意見
このような関係者の意識の変化の中で、新潟奉行所は以下のように反対の意見書を幕府に
提出する。
<1866年(慶応2年)の新潟奉行所の反対意見 >
H.幕府の最終結論
結局この新潟奉行所の意見が重視される。以下のような考え方の下に1867年(慶応3年)請
願は許可されない結論となる。この背景には、幕末の五大港開講の一つとして新潟港が対象 になっていたことが大きく影響したのでないかと推測される。
<1865年(慶応元年)の請願に対する幕府の最終結論 >
つことになる。 |