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時事評論 企業シリーズ プロフイル


<企業シリーズ>
No.8:株式会社江口だんご
(インタビューの時期:2006.5.31)

(2006年7月地元紙へ掲載した5回シリーズの連載を転載しました)
 株式会社江口だんご
  〒940l2043
  長岡市宮本東方町熊之宮52番地1
   社長 江口賢司(72歳)
    資本金1000万円
従業員数60名

【事業の内容】
餅団子、餅菓子、笹団子などの餅米加工品の製造販売。
                                      トップへ 企業シリーズ:目次

目次
【1】「信濃川中州での創業」
【2】「修業時代から独立へ」
【3】「人の縁の大切さ」
【4】「夢の復活プロジェクト・古民家再生」
【5】「夢の復活プロジェクト・幻の餅米復活」
*インタビューを終えて*


【1】「信濃川中州での創業」
○シリーズ第8回は、「轄]口だんご」です。江口だんごの社名は明快です。名前の通り"ああ、だんご屋さんね"と、すぐに分かってもらえます。
最近の社名は、名前だけでは製品をイメージできないケースが、意外に多いものです。カタカナやアルファベットの社名が増加しています。そのなかで当社のネーミングは、製品を具体的に示しており、知名度は自然に高まります。しかも江戸の昔から庶民に親しまれてきた"だんご"です。
「江口だんご」は長岡市民に親しまれる存在です。

○創業は明治35年です。社長の江口賢司さんのおじいさんにあたる江口駒吉さんがだんご屋をはじめました。その場所は、信濃川の中州であったと言います。
当時の信濃川は、中央に大きな中州がありました。この中州を利用して長生橋が架けられたのが明治9年4月です。長生橋は、長岡の発展と共に東西を行き交う人々で大変賑わったことは良く知られています。この中州が、おじいさんの駒吉さんが営業していた場所でした。

○長生橋の賑やかな様子は、水島爾保布(にほふ)の筆になる『長生橋の図』で知ることができます。この絵は長岡市が昭和61年8月30日に発刊した、『ふるさと長岡の歩み』の表紙に使われていますから、ご存じの方も多いはずです。中央に中州を配し、その左側に「大橋」、右側に「小橋」が描かれています。2つの橋には人力車が幾台も行き交い、旅人や行商の商人が忙しげに歩いています。川面にはたくさんの船が浮かびます。
まことに賑やかな、そして穏やかな古き良き長岡の姿です。その中州中央にある3軒のお店のひとつが、江口だんごの創業時の姿です。

○長岡が生んだ芸術家に描かれたのは、江口さんにとって幸運です。このように歴史的に由緒ある絵画に登場すれば、なお一層印象深くなります。
残念なことに、この中州はその後の大水で流されてしまいます。駒吉さんのお店も、並んでいたほかのお店も流されてしまいました。中州が無くなったのですから再建は別の場所にせざるを得ません。
駒吉さんは今の山田町に店舗を再建します。信濃川は交通の要衝であり、今後も賑わうと見込んだからです。今度は船頭衆の船宿や写真館に転業します。
轄]口だんごが確立するまでにはまだまだ曲折がありました。(つづく)
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【2】「修業時代から独立へ」
○おじいさんの写真館は繁盛します。しかし、写真はまだまだ贅沢品でした。子供たちの教育上良くないといってとうとう写真館を止めてしまいます。
新しく薪・石炭・酒などの販売を開業しました。お店の名前は、「橋駒」です。長生橋の傍らであることと駒吉の名前から決めました。成長した3人の男の子たちも一緒です。
現在の「橋駒」、「江口青果」、そして「江口だんご」です。

○江口さんのお父さんは、ずっと南方で転戦していましたが、戦後江口さんが社会へ出るとき、"食べ物にたずさわる職業につけば生活できるだろう"との親心で、坂之上町にあるパンと菓子の福泉堂に年期奉公に行くことを勧めます。こうして菓子職人への進路が決まりました。当時15歳、新制中学を出たばかりの江口さんにとって、決して楽ではなかったはずですが、5年の年季奉公と6ヶ月の礼奉公を見事に成し遂げます。

○しかし、福泉堂の年季奉公があけて上京した当時の東京は不景気でした。
適当な職が無く困っている江口さんに手をさしのべた人が、福泉堂で菓子造りの指導をしていた東京在住の伊藤与平さんでした。伊藤さんは菓子業界では、全国第一人者でした。伊藤さんの紹介で九州に渡ります。
当時九州に渡ることは今のヨーロッパへ行くよりも遠い処だったとのことで、九州の人が本州の人を見るのは初めてのケースがほとんどでした。
江口さんは、長崎市、大分市で修業し、岐阜市、関市、大垣市、名古屋市と各地で職人の腕を磨きます。
どこの店もいつも地域の1番店で50年近く立った今でも、おつきあいがあります。江口さんにとって大変勉強になった修業時代でした。

○このようにして昭和35年、いよいよ長岡で独立します。どのようなジャンルをメーンにするか、いろいろ考えた江口さんが選んだジャンルは、「だんご」でした。
おじいさんが信濃川の中州でだんご屋をやっていた。そのことが江口さんの脳裏に広がります。「だんご」こそが、江口さんのルーツなのです。

○「だんご」一筋と心に決めた江口さんです。大和デパート、丸専、イチムラ、丸大など当時の長岡商業界を担った巨人たちを相手に出店を意図します。 しかし、売上金を受け取る口座を作らなければなりませんが、昭和30年代のデパートの力は抜群です。羽振りが良かったデパートは、なかなか口座を開設してくれません。とりあえず借り口座で始めるしかなかったのです。
それでも江口さんはがんばります。「だんご」を作っている風景をお客様に見てもらうのです。今で言う実演販売です。当時実演販売は、長岡ではやっているところはありませんでした。江口さんの実演販売は大きな評判を呼びました。

○借り口座で始めたデパート出店は、もうひとつの実りをもたらします。
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【3】「人の縁の大切さ」
大和デパートから口座を作ってやるから本社(金沢)まで出向くようにとの連絡があったときです。列車には、田中角栄通産大臣(当時)が座っているではありませんか。早速大臣の前に行き、「長岡でだんごを作っていますがサインをいただけませんか?」とお願いします。今思い出すと冷や汗ものですが、大臣は、「何?長岡でだんごを作っている?どんげのだんごだ」「名前と住所は」と、手帳に書き留められました。

○、半月後越後交通秘書課を通じて色紙を受け取りました。『末ついに海となるべき山水もしばし木の葉の下くぐるなり』とありました。 
江口さんは、「車中での無礼なお願いとどこの誰だか分からぬ若造の話など訊くわけがないだろうと思っていたら、きちんと約束を守る大臣に感動し生涯ついていける人と信じた」と語ります。

○名古屋での勤務先、銘菓店三浦屋さんからは、"職人"ではなく"商人"の道の指導を受けました。"これからは小売りの時代になる。できるだけ早く営業体質を直売店に切り替えるように"と。"なるほど"と感じ入った江口さんは、デパートのテナント全部を引き上げます。そして三ツ郷屋に西津店をつくりました。和風の民家をイメージした店舗です。
 江口さんは、昨今の中心街を見るにつけ、「その的確さを、改めて感じる」と語ります。
その三浦屋さんが30年前、名古屋駅前に6階建てのビルを新築したときのことです。1階のテナントに海苔の且R本山に出店してもらうため、三浦屋さんと二人で目白へ仲介のお願いに行きます。田中首相は、「俺に不動産屋の手伝いをさせるのか」と言いながらもすぐに直接三井銀行に電話を入れ、出店が決まりました。
人の縁が活きた瞬間です。

○駒形十吉氏(新潟総合テレビ社長)と出逢い、加山又造、平山郁夫両画伯の作品に触れる機会にも恵まれます。
歌舞伎役者の歌右衛門さん、団十郎さん、菊五郎さんの自宅までだんごを配達に行き、家紋屋号を染め抜いたゆかた地を頂戴するというすてきな体験もしました。
俳優の森繁久弥さんとも出逢います。森繁さんとは50年前、23歳の頃、別府で修業していた時期に地獄巡りで出逢いました。森繁さんは、女優さん2.3名とゆで卵を食べていました。江口さんも食べたかったのですが、まだ若かった江口さんには森繁さんと同じ舞台で食べるだけの気力が欠けていました。"将来きっと俺もあのゆで卵を食べれるようにがんばるぞ"と心に決めます。

○その森繁さんが佐渡汽船の一日船長として新潟に来られたのです。そして、銀の馬の飾りがついたステッキを小脇に、店に立ち寄られました。全く信じられない出来事でした。
江口さんは、別府で拝見してから50年経った去年、奥様とお二人でようやくあのゆで卵を食べます。あのときの想いと夢を果たすことができました。(つづく
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【4】「夢の復活プロジェクト・古民家再生」
だんごは日本人の心の原風景です。原風景にふさわしい店舗でだんごを売ろう。江口さんの方針は、明快です。
平成9年に、「有限会社おかしとだんごの江口」に組織変更します。さらに平成17年には「株式会社江口だんご」に組織変更を行いました。
社名は、分かりやすく、名前の通り"ああ、だんご屋さんね"と、すぐに分かってもらえます。そして「餅菓子を通じて幸せと夢を感じるような心豊かなるものを創造し、社会文化への貢献に寄与いたします」と理想を掲げます。

○店舗も増加しました。今では西津店(長岡市西津町3805)、坂乃上店(長岡市東坂乃上2l3l2)、江陽店(長岡市堤町6l4)、曙店(長岡市曙3l3l17)と拡大しました。
 いずれも良き時代の日本人の生活を思い出させるような懐かしい風情です。とりわけ宮本東方町の本店は、1500坪の敷地のなかに2つもの古民家が組み合わせてあります。ひとつは、十日町市岩瀬にあった茅葺きの農家の建物です。もうひとつは、長岡市柿町に残っていた古民家です。江戸時代は、長岡藩の家老職であったというその建物は、重厚さに溢れ、風雪に耐えた立派な建物です。
江口さんは、いつも思います。"だんご屋と菓子屋は違う。だんごは日本人の心の原風景なのだ。原風景にふさわしい店舗でだんごを売ろう"。
 
○長岡市は、戊辰戦争と第2次世界大戦の両度にわたって戦火にあい、灰燼に帰しました。それでも郊外には、多くの古民家が残されています。江口さんと後継者の江口太郎(専務)さんは、取り壊される古民家があると聞くと、駆けつけます。
このようにして出会ったのが先の2つの古民家です。この古民家を10年間大切に保管しました。江口さんのプランは10年の時間のなかで次第に熟成していきます。
十日町市岩瀬の古民家は本店味処に使いました。大きな梁が巡らされた空間で、おだんごをはじめ、自慢の味を楽しんでもらいます。
長岡市柿町の古民家は、本店商い処に使いました。2尺近くあるケヤキの鴨居が、商い処の空間を重厚にしかも品良く演出しています。

○江口さんが古民家による店舗作りを明確に意識したのは、湯布院(大分県)でした。ここの割烹旅館「山荘無量塔(むらた)」は、新潟の古民家を移築しています。この古民家の空間が、江口さん親子を魅了しました。湯布院に移築された新潟の古民家は、暖かさ、重厚感、店内に漂う落ち着いた雰囲気を醸し出しています。その穏やかな空間や時間の流れが、人に感動を与えていることに、大きな驚きを覚えます。そして、これこそが、"日本の原風景"と改めて感じるのです。
こうして「江口だんご総本店」は、親子二代で描いた「夢の復活プロジェクト」は、山荘無量塔社長のアドバイスをもとにして2005年秋に完成しました。(つづく)

【5】「夢の復活プロジェクト・幻の餅米復活」
○江口さんには忘れられない味がありました。結婚した翌年、奥様の実家(農家)のお祭りに呼ばれて行き、そのときにごちそうになった草餅の味です。
商売で作っている自分たちのものより数段おいしく、何がどう違うのかと訊ねたら、米が違いました。「大正餅」だったのです。「大正餅」で作ったお餅は、コシが強く柔らかさが長続きし、他の餅米では作れないおいしさがありました。しかし、生産に手間がかかることから、次第に栽培されなくなり、昭和30年頃には全く姿を消しました。
とはいえ、新婚のとき知った味は忘れがたいモノです。

○「昔食べたあの大正餅をもう一度皆で食べてみたい。こんな素晴らしい餅米と文化があったということを今に伝えたい」との思いが募ります。原材料の「大正餅」が生産されていないのであれば、自分が生産したらどうなのか。
しかし、復活は想像以上に困難でした。まず肝心の「大正餅」の種籾が見つかりません。それでも探し続けて5年後、宮本の農家にあると聞き、訪ねます。ほんの両手を合わせたほどのわずかな量でしたが、長年探していた「大正餅」です。江口さん親子の感動はきわまります。

○地元の農事法人ナルミ農産さんの協力を得て栽培にかかります。ひとすくいの「大正餅」をなんとしても増やさなければなりません。秋の収穫を全て種籾として、翌年植えます。さらに翌年も。その繰り返しのなかで必要な"量"を確保しなければ、あの懐かしい味は復活できないのです。
 とはいえ、栽培は本当に難しいお米でした。コガネ餅よりも背丈が20〜30センチ高いため、倒れやすいのです。支えをしますが、それ自体が手間のかかる作業です。当然機械化ができません。
 さらに秋の実りが全て種籾に使えるわけではありません。質の良いモノだけを選んで使うのです。
 気の遠くなるような地道な作業の積み重ねでした。

○地域のみなさんがその夢に協力してくれました。暖かい支援が実現へこぎ着けたのです。 
その協力は現在も続いています。"古き良きものを伝えてゆきたい"という想いは多くの人々の共感を呼びました。毎年4月に田植え、5月末には無農薬による合鴨農法を実施します。そして、10月には稲刈りです。秋、紅葉の11月には収穫した大正餅で杵つきを行います。
美しい自然に囲まれたロケーションのなかです。山里の四季と行事を楽しみながら、「江口だんご」は、おいしさをさらに増しています。


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*インタビューを終えて*
30年ほど昔お会いしたとき、古民家への夢を語っていた江口さんです。その夢を実現し、さらに幻の餅米「大正餅」を復活しました。良き後継者太郎さんと共に、だんご一筋のチャレンジは、さらに続くようです。
(おわり)
新潟県経済雇用問題研究所理事長松田 宣治


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